Yamasaki 2007年5月・6月の我が家の出来事−17



鹿児島 (1)

指宿からバスで知覧へ行き、もう一度鹿児島に出てから飛行機で羽田に帰った。その最後に宿泊するホテルであるが、朝日新聞の3月10日付け日曜版に、向田邦子が「鹿児島感傷旅行」という本で「サンロイヤルホテルから見た「夕暮の桜島の凄み」は感激した」と書いていることが紹介してあったので、そのサンロイヤルホテルを予約した。しかし今回は残念ながら雨が降ったりやんだりの天候で、それでも素晴らしい桜島はあとで紹介するように見えたものの、「夕暮の桜島の凄み」は見ることができなかった。しかし、とてもためになるいい話を聞いたので、まずそれを紹介する。

西郷隆盛1

知覧から鹿児島に着いたのはお昼すぎ、そこで観光バス「かごしま歴史探訪コース」に乗った。最初訪れたのは「維新ふるさと館」で、ここで本当に西郷隆盛が鹿児島の人たちに好かれていることがわかった。なんと、西郷さんのそっくりさんが館内を回っており、西郷さんと会談した相手の格好にしてもらって、一緒に記念撮影ができるのだ(写真)。しかし、本当に重要なのはその西郷など維新の英傑たちを数多く輩出したシステムであり、それが薩摩で行われていた独自の教育「郷中教育」であることをここで知った。

「郷中教育」とは、薩摩藩の伝統的な縦割り教育のことで、「郷中」は、町内の区画や集落単位の自治会組織のことである。当時、鹿児島の城下にはおよそ30の郷中があったそうである。
「郷中教育」の目的は、先輩が勉学や武芸を通じて後輩を指導することによって強い武士をつくること。子どもたちは、一日のほとんどを、同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾・武芸を身につけ、勉学に勤しんだそうである。その中で、年長者は年少者を指導すること、年少者は年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなど、人として生きていくために最も必要なことを学んでいくことができたとのことである。
そのようなシステムのおかげで数多くの維新の英傑たちが出てきたとするならば、これからの国を支えていく若者を作り出すために「郷中教育」のような組織が必要ではないだろうかと、誰しも考えるだろう。そして、そう考えた人たちがその当時にもいたようである。残念ながらそれは日本人ではなく、薩英戦争の処理の為に薩摩を訪れたイギリス人であった。彼らは「郷中教育」のよさを知り、熱心に学んで英国へ帰った事がボーイスカウトの始まりとなったそうである。

「郷中教育」が徹底されると「強い武士」がたくさん生まれるので立派な「城」は必要ないという考えになり、武田信玄の言っていた「人は石垣、人は城」ということになる。島津家も同じ考えを持ち、居城であった鶴丸城は、本丸と二の丸(現在は図書館になっている)を隣り合わせにつくり、内堀と外堀をめぐらしていただけで、天守は置かなかった。そして堀の内外には、石垣を配した家臣たちの住居をその1つ1つがまるで城であるかのように配置していたそうである。まさしく「言行一致」である。


鶴丸城 西郷さん

西郷洞窟 「敬天愛人」の石碑プレート

バスの窓から見た、その鶴丸城の城壁には、たくさんの弾痕が残っていた(上左写真)。西郷が下野して、鶴丸城の一角に作った私学校の生徒が中心となって、西南戦争に出兵。政府軍が押し寄せてきた時に受けたものらしい。

それから、軍服姿のりりしい西郷さんの銅像(上右写真)、そして西南戦争の最終局面で西郷隆盛たちがこもっていた、城山にある「西郷洞窟」と呼ばれる洞窟跡(下左写真)もバスの中から見た。田原坂から敗北し鹿児島に戻った西郷は、鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して陣地を作り上げたが、政府軍の総攻撃に屈し、最後「もう、よか。」と言って自刃したという。なお、西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」の石碑プレートがはめられている、城山町のJR鹿児島本線上りのトンネル(下右写真:右側のトンネル上部に石碑プレートが見える)が見えるところで、観光バスは一次停車してくれる。



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