Yamasaki 2007年5月・6月の我が家の出来事−6



長崎・ハウステンボス 

ゴールデンウイークには、知覧に行く前にまず長崎に飛び、長崎市内とハウステンボスを訪れた。いずれも想像していたよりずっといいところだったので、あわせて紹介しておく。

まず、長崎を訪問して良かったと思った理由は、これから述べる3つの話を知ったことが大きい。

聖コルベ館

1つ目の話はコルベ神父の生涯である。以下は「グラバー園」や「大浦天主堂」へ向かう坂道の途中で右に曲がったところにある「聖コルベ館」をたまたま訪れたから知ることになった話である。

1930年4月、長崎へ布教に来たコルベ神父は、聖母マリアにすべてをささげて働く「聖母の騎士」修道院の基礎を築くかたわら、出版物による布教、邦人司祭の養成に力を注ぎ、1936年故国ポーランドに帰国するまで精力的に活動した。
祖国に帰ったコルベ神父は、院長として多忙な毎日を過ごしていたが、ナチスドイツによるポーランド占領のあと、ナチスの方針に頑強に反対したコルベ神父は、1941年2月、強制的に連行されアウシュビッツ収容所に送られた。
1941年7月、収容所から1人の脱走者がでた。怒った収容所長は10人を選び出し、餓死刑にすると宣言した。しかし、その中の1人が「妻子がいるので死にたくない」と叫んだ。するとその時、16670番の囚人が静かに進み出てこう言った「私には、妻も子どももいないので、その人の身代わりにならせてください」。それがコルベ神父だった。餓死室に入れられた10人は、コルベ神父の励ましで、精神的に支え合いながら、つぎつぎと死を迎えていった。1941年8月14日、兵士が、ただ1人生き残っていたコルベ神父に毒薬を注射した。聖母マリアの被昇天の祝日の前日のことだった。
コルベ神父は、1971年に福者の位に、1982年にポーランド出身のヨハネ・パウロ二世によって聖人の位に挙げられた。いずれも異例の速さでの実行であった。

コルベ神父が開いた「聖母の騎士修道院」は現在もあり、神父が発刊した冊子『聖母の騎士』もそこの人達によって出版され続けているとのことである。また、その敷地内に「聖コルベ館」と同様の「コルベ記念館」があるとのこと。今回は残念ながら訪れることができなかったが、今度長崎に来る機会があれば是非「コルベ記念館」を訪問してみたい。


大浦天主堂 日本の聖母子

「聖コルベ館」から坂道に戻って昇っていくと、日本最古の木造ゴシック造りの教会であり国宝に指定されている、美しい「大浦天主堂」が正面にみえる(左写真)。正式には「26聖殉教者天主堂」というそうで、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され処刑された日本人20名、外国人6名の聖殉教者たちの処刑された西坂に向けて建てられているとのことである。この教会の内部も簡素で素敵であるが、そこに「信徒発見のマリア像」がある。このマリア像にまつわる話が2つめの話である。

1864年大浦天主堂が完成したが、その2年後、「フランス寺」と呼ばれて評判だった天主堂にくる大勢の客にまぎれて、浦上で代々キリスト教の信仰を守ってきたキリシタンたちがこっそりやって来た。そして聖堂内で祈る神父に近づき、「私たちもあなたと同じ信仰をもっています」とささやき「サンタ・マリアの御像はどこにありますか?」と尋ねた。神父は大変驚いたものの、喜んで彼らを聖母像の前まで導き、一緒に祈りを捧げた。
これにより、250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら信仰を守りとおしてきた「隠れキリシタン」と呼ばれる信者達の存在が初めて世の中に明らかになった。彼らは、人目に付かない納戸に幼子キリストを抱く聖母マリアの絵(「お掛け絵(おかけえ)」)をかけ、それを「納戸神(なんどがみ)」と言って代々信仰してきたのだ。「お掛け絵(おかけえ)」は、何度も書き写していくうちに、日本の母と子の姿になっていったという。
このような、世界宗教史上類まれな出来事がこの聖母像の前で起こったので、この像は『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになった。

それにしても、入り口中央のマリア様(右写真)はとても素敵である。この像は、日本に数多くの「隠れキリシタン」たちがいたというニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもので「日本の聖母」という名前だそうである。



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