Yamasaki 2007年5月・6月の我が家の出来事−7



長崎・ハウステンボス (2)

「未来を生きる子ら」別名「ふりそでの少女像」

「ふりそでの少女」の表紙 「ふりそでの少女」の最後のページ

3つめの話は、原爆資料館の屋上庭園にある「未来を生きる子ら」別名「ふりそでの少女像」(上写真)にまつわる話であり、これが最も目頭を熱くする話であった。

昭和20年8月9日、9歳の少女は、突然の大爆発のため、崩れた家の下敷きになり、頭に大怪我を負った。医療もままならない中で数日間生き、やがて亡くなった。少女の両親は上海に行っていたため、預かっていた親戚たちにより、戦時下ではぜいたく品だった美しいふりそでを着せられ、薄化粧を施されて、同じく亡くなった近所の女の子の亡きがらと共に荼毘に付された。少女の10歳の誕生日だった。 その火に包まれるふりそで姿を、偶然通りがかりに見かけてしまった男の子が、その光景を忘れられずに、約30年後に絵に描いた。その「悲しき別れー荼毘」という絵が、原爆のために亡くなったわが子の供養にお地蔵を建てたいと思っていた、その少女の母親に娘の最後の姿を知らせることになった。
少女の母親の願いを知った地元の中学生や高校生、その保護者らは、その願いを実現するため「ふりそでの少女像をつくる会」を結成し、募金を募った。その結果として、長崎原爆資料館の屋上庭園に像が建立された。

原爆資料館でこの「悲しき別れー荼毘」という絵ののった絵本「ふりそでの少女」を購入した(下左写真が表紙:「悲しき別れー荼毘」という絵の一部でもある)。その最後のページに「未来を生きる子ら」の像のもととなった絵が載っている(下右写真)。このページには、「やっとやすらかになった(註:お墓が立てられたことや鎮魂の植樹がされたことを指す)、永遠の少女。あなたたちの死をむだにしないよう私たちは平和をうったえ続けます。」という文が添えてある。この絵そして「未来を生きる子ら」の像は、ふりそで姿の二人の少女の魂が天国に向かって飛んでいくというふうに見るのではなく、平和な世の中で自由に大空を羽ばたいているというふうに見るべきであろう。それでもしかし泣けてくる。

またこの話を取材した長崎放送の番組が今でもここで見れる。105歳になった少女の母親が寝ているベッドの脇には「未来を生きる子ら」の写真が貼ってあり、毎年原爆記念日には鶴を折っているとのこと。そして彼女が80歳のときに「悲しき別れー荼毘」を見たときの映像も見れる。涙がとまらない。

(追記:原爆資料館に、自らも重い傷を負った原爆投下直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組み、長崎名誉市民第一号となった永井隆博士に関する資料もあった。実は、その永井隆博士が、徹と同じ島根県松江市に生まれ、松江中学、松江高等学校を卒業された先輩であることをこのホームページを書いている最中に知った。次回訪問するときは、博士が晩年をすごして被爆した人々を励ます数々の名著を執筆された「如己(にょこ)堂」や「永井隆記念館」も訪問して見たい。)

浦上天主堂1
浦上天主堂2

浦上天主堂なマリア像

原爆の爆心地に近かったため、わずかに側壁を残しただけで無惨に崩れ落ちたのが、浦上天主堂である。信仰の灯を守りとおしてきた浦上地区の人々が、20年の歳月をかけてレンガを一枚一枚積み上げて完成させ、東洋一の壮大さを誇っていたという天主堂が、一瞬のうちに崩れたのである。現在はきれいに再建されているが、その入り口に至る道の左側にある植え込みに、全身黒く焼け焦げ、頭部さえ欠いた聖人達の石像が並んでいる(上写真)。タイのアユタヤ遺跡で見た、頭部を切り取られた仏像群(このページ)を思い出した。

そして、ここでも、原爆の犠牲となった全ての人々のために祈っているような素敵なマリア像に会えた(下写真)。


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