Yamasaki 2015年1月・2月の我が家の出来事 - 2


母の死

認知症が明らかとなった母親を、住み慣れた松江から茅ケ崎に連れてきて4年、誤嚥がひどくなり、パンを喉につまらせたことがきっかけで「胃ろう」にして介護施設に入居していた。ほぼ同時期に足が弱くなって寝たきりとなり、最近では心臓も弱ってきていた。

松江では毎日お菓子とお茶を飲むことが楽しみだった母親を、医者が「また口から食べれるようになることもある」と言った言葉を信じて「胃ろう」とし、結局永久に口から食べることも飲むこともできない状態にしてしまったことを悔やむこともあった。しかし、幻覚の中に出ていたであろう娘時代の友達に呼び掛けている時などの母親の笑顔をみると、それでも生きている意味はあるんだと思ったものである。

その母親が1月5日の早朝に亡くなった。実は施設から救急車で病院に運ばれたのは大晦日のお昼で、舌が気道をふさいで泡を吹いているところを施設の看護師が発見した。我々夫婦も施設からの連絡で病院に飛んで行った。母親の肺にチューブを入れ、看護師が風船のようなものを手で押して空気を入れているところだった。医者が「チューブを外したらそのまま亡くなるだろうが、機械につないだら生き続けることはできる。」と言った。しかし、「胃ろう」のこともあってそれは断り、肺に無理に空気を入れるのをやめてもらった。すると、十秒くらい経ったときに、大きな音をあげて母親が呼吸をし始めたのだ。まだ生きる気はあるんだと思いました。そしてその晩は酸素吸入で持ちこたえることができ、山は越したかに思えたのだが、やはり心臓が弱っていたことがきいたようで、5日の明け方亡くなった。医者からは「心不全」と告げられた。87歳であった。


母の死1

葬儀屋に遺体を葬儀場まで運んでもらったが、希望していた「家族葬」のための葬儀場と焼き場の関係で、告別式は早くて4日後の9日となるとのこと。そこで、菩提寺である温泉津の西念寺の住職に来てもらえるかかどうか電話したら、娘さんが出て、住職は関東に出てきている檀家さんの法要で埼玉にいるとのこと。娘さんから埼玉にいる住職に連絡が行き、住職から電話がかかってきて、なんとその日の夕方にこちらまで行くと言われたときには驚いた。そのために余分に一泊してもらい、有難いことに「枕経」をあげてもらうことができたのだ。母親がその日を選んで亡くなったのではないかと思ったし、それだけ母親が信心深かったのだと理解した(母親は松江では毎日木魚を叩いて南無阿弥陀仏と念じていた)。

住職は「枕経」をあげに来た時に母親の顔を見て「いいお顔で往生している」と言ってくれた。安らかな顔だったが、少し口をあけていた。しかしそれも「念仏を唱えている」と受け取られたとのこと。また、母親が生まれたのは5月1日で、亡くなった日と(1と5が)逆になっていることに家内が気付いたのだが、そのことを住職に伝えると、「逆を向いている狛犬の阿吽と同じで、始まりと終わりを示していることに符号している」と説明してくれた。

次の日、いったん温泉津に帰り8日の通夜にまた来てくれた住職は、母親の戒名を書いた位牌を持ってきてくれたのだが、その戒名にまた驚いた。戒名の最後に「麗顔大姉」と書かれていたからである(写真)。住職が言うには「自分としてもこのような戒名をつけたことは今までないけれども、どうしても亡くなられた時のお顔の印象が強くてこの名前になった」とのこと、本当にとても有難いことだと思い、母親も喜んでいると思った。

なお、戒名には院号が付いたが、西念寺は代々戒名料自体をとらないということを前の住職に聞いていたし、現住職もそうであることを枕経をあげてもらった夜に言ってくれた。代々その家がどの程度功徳を積んできたかで戒名を付けているとのことで、「山崎家」のご先祖様にお礼を言いたい。また、そう言われたからにはということで、「枕経」をあげていただいたことも含めてお布施は十分の額を気持ちとして差し上げた。


母の死2

母親は大晦日に救急車で病院へ運ばれてから亡くなるまで1週間ほど入浴していなかったので、「湯灌」をして髪もきれいに洗ってもらった。化粧は薄めにしてもらい、口紅だけは私が色を決めて厚く塗ってもらった。いずれも「麗顔大姉」という戒名を知る以前のことだったが、きれいな母親の顔を見てもらいたいという気持ちが強かった。母親には趣味がなかったので(強いてあげれば上述した「お茶と念仏」)、趣味で描いた油絵を数点置いた父の葬儀の時とは違い、母の学生時代及び独身時代の、母がきれいに映っている写真、それから父が母を描いた油絵を、葬儀場の前に置いた(右写真)。これも同じ気持ちからである。近親者だけの「家族葬」だったのに、介護施設で母の面倒を見てくれた方々が是非にということでたくさん来ていただいたので、化粧をした母親、そして若い時代の母親を見てもらえて良かったと思っている。

一人息子なのに、大学や仕事の関係で松江から離れてしまい、母をこちらに連れて来てからも十分なことをしてやれず、親孝行という言葉からは無縁だったけど、亡くなって初めて一所懸命に母のために何かをやったように思う。


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