Yamasaki 2007年5月・6月の我が家の出来事−4



知覧

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徹は淳子とともに、亡き父が是非行ってほしいと言っていた3箇所、「無言館」、「知覧特攻平和会館」、「舞鶴引揚記念館」のうち「知覧特攻平和会館」を、ゴールデンウイークを利用して訪れた(「無言館」は昨年の秋に訪問)。会館の館内に展示されている多数の特攻隊員の遺書は「無言館」でと同様、涙なしには読めない。ただ「無言館」での涙が画学生が大好きな絵を途中であきらめて戦場へたつ無念さに感じての涙であったのに対して、ここでは愛する国や家族や大切な人達のために若い命を捧げたその純粋な気持ちに感じての涙である。

展示されている遺書はとても多いので、涙を流しながら丁寧に読むと(自然とそうなる)、丸一日いても読み終わらないだろう。そこで、いくつかの具体的な事例を含んだ講話を聞いてみたのだが、これがとても良かった。内容(後で「富屋食堂」で展示されていたエピソードのいくつかを紹介するが、それとかなり重複する)もそうだが、話をしてくださるご年配の方の声には気持ちも力もはいっており、身が引き締まる。途中で一人の子供が泣き出して若い母親がそれをとめられなかった時に、きっちりとたしなめて外へ出るように促した凛とした声は特に印象に残っている。是非次代を背負う若者たちに聞いてほしい。

会館から外へ出ると、出撃前の数日を過ごした三角型の兵舎(再現)がある。枕を涙で濡らした隊員もいたというが、出撃の朝は皆笑顔で飛び立っていったということである。全体として写真を撮るような気持ちになれなかったが、父に報告する意味も込めて、最後に会館の正面から写真をとらせていただいた。今2枚をつなぎ合わせて見ると、入り口右側の木は鶴が羽を広げてこちらに飛んでくるように見えることに気がついた。本当に特攻隊員の決意と行動には頭が下がるし、素直に「戦争だけは二度と繰り返してはいけない」と思える場所である。


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特攻平和会館から市街(といっても小さな町である)へは歩いたが、道の両側にはずーっと灯篭が並んでいた(上左写真)。そしてしばらく行くと、道路の左側に、小高い岡の上に立っている1本の大木とその幹に結んだ紐にかけたたくさんのこいのぼりが見えた。心が温まる景色であった(上右写真)。
市街では、道の両側には灯篭ではなくてきれいに刈り込まれた木が並んでいる(下左写真)。そして側溝にはきれいな水を証明するかのように鯉が放たれている(下右写真)。昔行った津和野を思い出した。

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特攻隊員から母のように慕われ「特攻の母」と呼ばれた鳥浜とめさんが開いていた軍の指定食堂「富屋食堂」が、「ホタル館」という名の博物館として再現されており、そこを訪れてみた。「ホタル館」という名前は、以下のようなある特攻隊員のエピソードに由来する。

その特攻隊員は出撃前夜に鳥浜とめさんに挨拶に行き、明日沖縄に行き敵艦をやっつけて死んだらホタルになって帰ってくる、と言ったという。そして次の日の夜、本当に約束したとおり大きなホタルが食堂裏の小川からはいってきた。それを見た鳥浜とめさんはみんなを呼び、みんなはホタルを見ながら「同期の桜」を歌った、、、、、

「ホタル館」には上記特攻隊員の話だけではなく、出撃前夜「私は朝鮮出身です」と打ち明け、とめさんと一緒にアリランを歌って出撃していった身寄りのない若者や、「この戦争は負ける」と常日頃言っていた自由主義思想の若者の話等、特攻隊員と鳥浜とめさんとの交流を中心に涙あふれるエピソードが、写真とともにいくつも展示されている(徹は旅行から帰ってからそのようなエピソードを集めた本「ホタル帰る」を購入した。) それらすべてのエピソード中でしかし、一番心を揺さぶられたというかショックを受けたのは次の話である。

少年飛行兵の教官だったある中尉は『必ず後から行くからな』と言って多くの若者を送り出してきた。しかし当時特攻隊は若い独身者しか選ばれなかったので、結婚してすでに二児があった彼は2度志願したが選ばれなかった。そこで3度目は自分の指を切って血判書を出した。一方、最初は反対していたものの夫の決意の固さを知った妻は、後顧の憂いを絶つために二人の子を道連れに投身自殺した。中尉の特攻志願は受理され、翌年特攻隊隊長として沖縄へ向けて飛び立った。そして、妻子のもとへと散っていった、、、、、

究極の「言行一致」「率先垂範」であろうか、しかし家族のことを考えると言葉が出ない。

父が死ぬ前に「無言館」に行って欲しいと言っていた意味は、繰上げ卒業・シベリア抑留組で油絵を書くことが好きだった父が、長野県にある「無言館」の存在を知ったときには既に足が弱くなっており行くこと能わず、そこで代わりに見てきて欲しい、というものであったと理解している。しかし「知覧特攻平和会館」は、前身の「知覧特攻遺品館」が1975年には開設されており、父は既に母と来たことがあるのだ。すると息子に行って欲しいと言っていた意味は、「代わりに見てきて欲しい」ということではなく、上記のようなエピソードを知って同じ思いを共有して欲しい、そしてできるなら何かしら後の人生に生かして欲しいということではなかったか、と思える。そういう点からは、確かにひとつ、上に立つ人間の生き方を上記エピソードから極限の形として学んだ気がする。



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