Yamasaki 2014年7月・8月の我が家の出来事 - 24


島根出張(大田・松江・出雲)- 4

島根出張55 島根出張56

そして銀山の中心「柵の内」にはいる。江戸時代の初め、「柵」で厳重に囲まれていたことからこの名があり、銀の生産活動はもちろんのこと、生活・流通・信仰・支配に関わる遺構や遺物が残っている地域である。(環境保全のため車は通れないが)自転車が通れる舗装道路が「龍源寺間歩」まで続くが、それとつかず離れす遊歩道が小川に沿ってあり、そこを歩いた(左写真、右写真)。


島根出張57 島根出張58

少し行くと、江戸時代に幕府の直轄領となった石見銀山の初代の奉行、大久保長安の墓所がある(左写真)。大久保長安は、新技術を導入した鉱山経営や、街道整備、税制改革などによって、銀の生産高を飛躍的に増加させ、最終的には全国の鉱山を支配することになった。ここには、大久保長安が生前に作ったお墓である「逆修塚」や「五輪墓」もあるのだが、今回は直前の風水害によってたくさんの木が倒れ、墓所もかなり破壊されていたため(右写真)、それらは確認できなかった。


島根出張59島根出張60

島根出張71 島根出張61

そして、石見銀山「柵の内」のハイライトのひとつ、谷の斜面に城の石垣のようにも思える「清水谷製錬所」の跡を見た(上写真:全体、下左写真:部分近接撮影)。説明版によると、清水谷製錬所は、明治時代に石見銀山を開発した大阪の会社、藤田組が、現在の約40億円相当のお金を費やして造った製錬所。現在は建物の基礎となる石垣やレンガ積みが残っているだけだが、谷の斜面を利用して築かれた8段の石垣は、高さは33メートル、面積6750平方メートルという大きさで、各段の上に建物を設け、上から下へ鉱石を降ろしながら順次製錬が行われたとのこと(下右写真)。しかし、鉱石の品質が予想より悪かったこともあり、成果が挙がらず、わずか1年半で操業は中止されたとのことである。


次ページ


2014年の出来事

ホーム