2008年7月・8月の我が家の出来事-1
舞鶴引揚記念館-1
会社に勤めてから30年を経過し、特別休暇をいただけることになった。一度にとることは今の状況では無理なので2分割させてもらい、前半を松江と温泉津での父の3回忌(と遣り残していた不動産相続の手続き)を中心に使わせてもらうことにし、まず松江に行く途中に、懸案であった父の3つの遺言の最後のひとつ、舞鶴引揚記念館行きを実行することにした(あとの2つは無言館行きと知覧特攻平和会館行き)。
そして、駅からは30分はかかったであろう、バスは「引揚記念館」前に止まった。降りてみてみると「引揚記念館」は、思っていたよりこぢんまりしていた(左写真)。その記念館の入り口横の外壁には、海外からの引揚が始まってから40年にあたる昭和60年に設置された「平和の誓い」の板がある(右写真)。その中にある以下の記述は、今でもそのまま通用する極めて普遍的なものである。
館内の最初の展示室には、シベリアの収容所の模型や収容所内での辛い生活をあらわす人形の展示から、一日一杯の薄い粥をすくうのに使っていたスプーン、防寒服、靴などが展示され、シベリア抑留の厳しい生活を伝えている。しかし、一番こころを打ったのは、缶詰の空き缶で作ったペンに、すすを集めて作った「インク」をつけて、白樺の木の皮をはいで作った「紙」の上につづった「白樺日記」(写真:木の皮なので両端が丸まっている)と、日本語の読める検閲官がきてから許されるようになった収容所から家族へ当てた手紙のうちのひとつである。特にその家族へ当てた手紙に書かれていた以下の言葉(筆写したわけではないので正確ではない)には、極寒の地で生きていくことの辛さがひしひしと感じられ、涙を禁じえなかった。
そして最後の展示室に、シベリア全体でどれほどの収容所があったのかを示す地図(写真)があった。徹の父が収容されていたマルシャンスク(黄色い矢印で示す位置)も載っていて、そこには66人の墓があることが記されていた。いったい何人の捕虜がマルシャンスク収容所にいたのかの記述はなかったが、少なくとも66人は生きて日本に帰れなかったことになる。徹の父は生きて帰れた(そして徹が生まれた)のだが、年をとってからの最大の楽しみは、年に一度、収容所仲間の故郷を順に回って開かれる「マルシャンスク会」に参加して酒を酌み交わすことだった。