Yamasaki 2008年7月・8月の我が家の出来事-1



舞鶴引揚記念館-1

会社に勤めてから30年を経過し、特別休暇をいただけることになった。一度にとることは今の状況では無理なので2分割させてもらい、前半を松江と温泉津での父の3回忌(と遣り残していた不動産相続の手続き)を中心に使わせてもらうことにし、まず松江に行く途中に、懸案であった父の3つの遺言の最後のひとつ、舞鶴引揚記念館行きを実行することにした(あとの2つは無言館行き知覧特攻平和会館行き)。

舞鶴駅舎とバス停

蛇島と烏島 海軍教育隊の練習場

東舞鶴駅近くのホテルに泊まり、駅から日に3本しかない(!)「引揚記念館」行きのバスに乗った(上写真:駅舎とバス停)。乗客は徹一人、多分見習いだろう運転手ともう一人の先輩運転手に、いろいろ案内をしてもらいながらの訪問となった。バスの窓から見える小さな2つの島(下左写真:まんなかに写っている)の名前は蛇島と烏島、バス停のある海軍教育隊の練習場(下右写真)にはとても深いプールがあり、シンクロナイズドスイミングの日本チームの練習はここで行われている、云々、、、、、

引揚記念館 平和の誓い

そして、駅からは30分はかかったであろう、バスは「引揚記念館」前に止まった。降りてみてみると「引揚記念館」は、思っていたよりこぢんまりしていた(左写真)。その記念館の入り口横の外壁には、海外からの引揚が始まってから40年にあたる昭和60年に設置された「平和の誓い」の板がある(右写真)。その中にある以下の記述は、今でもそのまま通用する極めて普遍的なものである。

(前略)星霜ここに移り、今やわが国は飛躍的な繁栄を続け、国民は平和な生活を享受している。しかしながら祖国の土を踏めずに異国で眠った同胞に想いをいたすとき、まことに痛恨の極みであり、今日の平和と繁栄を分かち得ないことはかえすがえすも残念でならない。(中略)国際緊張の高まる今こそ、全世界の人々と相携え、人類永遠の平和を確立するため、不断の努力を傾注しなければならないことを固く決意し、もって平和の誓いとする。

白樺日記

館内の最初の展示室には、シベリアの収容所の模型や収容所内での辛い生活をあらわす人形の展示から、一日一杯の薄い粥をすくうのに使っていたスプーン、防寒服、靴などが展示され、シベリア抑留の厳しい生活を伝えている。しかし、一番こころを打ったのは、缶詰の空き缶で作ったペンに、すすを集めて作った「インク」をつけて、白樺の木の皮をはいで作った「紙」の上につづった「白樺日記」(写真:木の皮なので両端が丸まっている)と、日本語の読める検閲官がきてから許されるようになった収容所から家族へ当てた手紙のうちのひとつである。特にその家族へ当てた手紙に書かれていた以下の言葉(筆写したわけではないので正確ではない)には、極寒の地で生きていくことの辛さがひしひしと感じられ、涙を禁じえなかった。

(前略)最近荷物も送ることができるようになったとのことですが、お心遣いは無用です。ただ、ジャケットとズボン下を送っていただければ、これに勝る喜びはありません。(後略)

また、次の展示室にある、引揚船を迎える家族の想い、特に再会の喜びを伝える写真とその反対に帰ってこない夫を待つ母と子の写真は胸を打つ。「岸壁の母」として有名な端野いせさんのことも紹介しているが、息子の新二さんが結局は生きていたことはここで初めて知った。但し詳しい事情はここにはちゃんと書いてなかったので不満が残った。(その事情は、あとで述べる「なみ月」で一緒になった客から聞いた。それによると、新二さんはシベリア抑留ののちに中国共産党軍に従軍、妻子をもうけて上海に住んでいたという。彼は、母が舞鶴で待っているということを知っていたが、“死んだことになっている自分が帰れば、歌にまでなって有名になっている母のイメージを壊すことになる。”という理由で、帰ることも、また連絡することもしなかったとのことである。辛い話である。)

収容所分布図

そして最後の展示室に、シベリア全体でどれほどの収容所があったのかを示す地図(写真)があった。徹の父が収容されていたマルシャンスク(黄色い矢印で示す位置)も載っていて、そこには66人の墓があることが記されていた。いったい何人の捕虜がマルシャンスク収容所にいたのかの記述はなかったが、少なくとも66人は生きて日本に帰れなかったことになる。徹の父は生きて帰れた(そして徹が生まれた)のだが、年をとってからの最大の楽しみは、年に一度、収容所仲間の故郷を順に回って開かれる「マルシャンスク会」に参加して酒を酌み交わすことだった。


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