2013年7月・8月の我が家の出来事 - 5
出雲大社「聴き旅」とサンライズ出雲 - 5

ここは出雲大社の西方500mほどのところ、代々の宮司のお墓がある場所である(左写真)。この狭い路地をはいっていくと、お堂の前に、唇の部分が赤くなっているお地蔵様が立っている(右写真)。このお地蔵様は「口紅地蔵」と呼ばれており、次のような逸話が語り継がれている。
昔は、出雲大社の周辺には芸者もたくさんいた。そして江戸時代の終わりごろ、「佳代」という芸者が、なかなかお客さんがつかないので、このお地蔵様の唇に口紅を縫って「お客様が付きますように」とお願いをした。すると、たちまちお客さんが集まり実入りも多くなったのである。そこで他の芸者たちも口紅を塗ってお願いするようになり、以後「口紅地蔵」と呼ばれるようになったとのことである。


「口紅地蔵」からまた500mほど西にいくと、このページで紹介した稲佐の浜に至る。これは夕暮れの表情である(写真)。

以降は、夜の撮影となった。稲佐の浜からまた出雲大社の方に戻ろうとする小さな通り沿いの民家の横にある小さな祠(左写真)。この中にはお地蔵様が祀ってある。このお地蔵様は「赤地蔵」といい、「口紅地蔵」と同様に、次のような言い伝えが残っている。
昔、あるお金持ちの夢の中に、(出雲大社背後にある)亀山に住んでいるお地蔵様が現れ、「もう少し賑やかなところに住みたい」とおっしゃられた。そこで、そのお金持ちはさっそく亀山に登ったところ、ぽつんと立っているお地蔵様を見つけた。そこで、そのお地蔵様を背負ってここまできたところ、急に重たくなったので、ここに祠を建ててお祭りしたとのことである。
これは、一の鳥居より南側にある交差点の角にある「舞い踊る」女性の像である(右写真)。この「舞い踊る」女性は、歌舞伎の創始者である「出雲の阿国」である(このページでは、「阿国塔」の紹介をしている)。説明版には以下のように書いてある。
「出雲の阿国」は、もともと「イズモタイシャ」の巫女であり、踊りの名手であった。阿国は、京都へ出てから「歌舞伎踊り」で大評判となり「天下一」と評されたが、女性が踊ることを禁じられたため、のちに出雲へ戻って尼となり、静かな余生を送ったとのことである。