Yamasaki 2001年9月・10月の我が家の出来事


帰国(徹)


Niebaum Coppola Beringer


Residence Innというホテルで、旅行やドライブそしてBoseのシステムで音楽を聞くことを楽しみとしながら2ヶ月、徹の後任がやってきて仕事の引継ぎも終了し、アメリカを離れて日本に帰る時がきた。まずはおみやげである。ナパバレーに行ってワイン関係のものを買ってきた。上左写真はそのときに立ち寄ったCoppolaワイナリーの庭、上右写真はBeringerワイナリーのブドウ(Cabernet Sauvignon)畑である。最終的にBeringerで栓抜きなどいろいろなものを買うことができ、落ち着いてワインの試飲をすることができた。ナパバレーから戻ってから最後の1週間は仕事の関係の人や研究所の友人、英会話の先生や駐在員仲間のお別れパーティが続いた。最後の夜もパーティ、そしてその後参加者全員で会社に来て明け方までオフィスの片付けを手伝ってもらったあと、徹はホテルへ戻って荷作りで徹夜した。


Sanford University from the Sky


そして、サンフランシスコ空港から旅立った。この写真は飛び立った直後、スタンフォード大学を初めて空から認識することができて撮影した写真である。真中あたり、緑色の芝生でできたオーバルが見えるが、そこは初めてパロアルトを訪れたときに行ったところである(このページ参照)。その左上には、メサイアや第9を楽しんだメモリアルチャーチがある(このページ及びこのページ参照)。またオーバルの右側に見える白い建物はロダンで有名な博物館である(このページ参照)。さらに右下のほうに見える木がまばらに見えるところはネイティブインディアンたちの催しPowWowが開かれた場所である(このページ参照)。そして左下の方に競技場が見えるが、ここでは女子テニスを観戦した(このページ参照)。思い出がたくさんつまった場所である。


Fogel Park at Matsue


9月初旬に日本に戻った徹は、実家の両親に帰国の報告をした。写真はそのとき、両親を連れ出して行った「フォーゲルパーク」の中で撮ってもらったもの。「フォーゲルパーク」自体はあまり面白いところではない。特に、和風の建物と中に飼われている熱帯地方の鳥とのアンバランスがいけない。

それから、国内に預けていた荷物やアメリカから送り出した荷物が次々到着して、足の踏み場もなくなった家の中を片付けた。そして帰国1週間後、あの同時多発テロ事件がおこった。もう1週間長くアメリカにいたら、帰国はもっと遅くなっていただろう。


3年間の旅行決算


思えばこの3年間での日本への出張・一時帰国は14回を数えた。おかげで全日空のマイレージのプラチナ・メンバーにもなり、サンフランシスコの全日空の係員の方には顔を覚えられてしまった。苦い思い出は、間違えて淳子のパスポートを持ってきてしまったこと。その全日空の係員の方に30分前までは待ちますと言われたが、結局間に合わず、午前中の便だったのを提携している午後のユナイテッド航空の便に変えてもらった。それ以降はパスポートは家族一緒にはせず、自分専用のパスオート入れに入れておくようになった。

アメリカ国内の旅行は数しれずだが、累計で14州を訪れた。内訳は、アリゾナ, カリフォルニア, コロラド, フロリダ, ルイジアナ, マサチューセッツ, ネヴァダ, ニューメキシコ, ニューヨーク, オレゴン, テキサス, ユタ, ワシントン, ワシントンDC、である。ここで「訪れた」とは、「最低1泊はした」という意味である。必ずレンタカーを利用したので、Hertzのゴールド・メンバーになった。苦い思い出は、ホテルで鍵を一式無くしたこと。(実はそのときは、めがねも忘れたのだが、それはあとでホテルから送り返してもらった)。そのため、空港の長期駐車場に停めておいた車をピックアップできず、家までタクシーで帰り、合鍵を持ってまた取りに来るというばかばかしいことになった。

そしてもうひとつ14というと、14の国立・国定公園を巡った。内訳は、ヨセミテ、デスバレー、グランドキャ二オン、ザイオン、ブライスキャニオン、モニュメントバレー、レインボーブリッジ、ホワイトサンズ、グアダルーペマウンテン、カールスバット、オリンピック、マウントレーニエ、エバーグレーズ、ビスケーンである。(実はモニュメントバレーは国立・国定公園ではないのだが、まあそれに準じるものだろう)。アメリカは大自然の国である。そしてそれを保存していくという姿勢がしっかりしているので、すばらしい。ミュージカルとかディズニーやユニバーサルスタジオのようなアメリカのもう一方の特徴であるアミューズメントは輸出できるが、自然は輸出できない。それを堪能させてもらえたことには非常に感謝している。


アウディA3


Audi A3 Front Audi A3 Rear


実は、最後の日本出張のおりに、先に帰国していた家族が必要としていたため、車を買った。アウディA3である。日本の狭い道にまだ慣れていないから小さな車の方がいいだろうということで、まずコンパクトカーにするというのが条件だった。それから、徹のヨーロッパ出張のときにレンタカーとして乗ったスコダのオクタンビアが良かった(このページ参照)ので、それと同じ車台が使われているコンパクトカーにしたいというのが希望だった。すると真っ先に候補に上がったのが、フォルクスワーゲンのゴルフ(かボーラ)であったが、近所にゴルフを持っている人がいたので、アウディA3にしたという次第である。徹にすれば、のろのろしか走れない日本では、車は「走り」より「デザイン」、特に渋滞のときに長時間人目にさらされる「後ろから見たときの美しさ」が重要だと思っているが、その点でも合格である(ドイツのプロダクト・デザイン賞を受賞したとのこと)。色は黒だが、これは毅と遼の希望によるもの。


新しい職場(徹)


徹は、日本で研究所に復帰した。メディア関連の研究所で、いくつかのプロジェクトマネージャとして、多忙な毎日が始まった。3年のアメリカ生活を経て改めて感じたことは、日本では「会議が多い」ということと「自分で何でもやる」ということである。会議が多いことは、悪いという意味ではない。日本ではチームとして活動することが多いので、いきおい情報のシェアとかコンセンサスとかが重要であるということになる。ただし、組織が大きいがゆえにまわりの部門との調整のための会議も多いことは、やはり大変である。もうひとつ、アメリカでは分業が進んでいるため、自分の専門に特化して仕事をすればいいが、日本では何から何まで自分がやらなければならないということがあり、集中力をそぐ。シリコンバレーでは、組織は小さいし、研究者は研究だけをやればいいので、非常に集中した時間を長くとれる。しかし、逆にその分社外コンサルタントとかサポート部隊が必要になって見た目のコストはあがるので、本当に高いレベルの成果が出せる研究者でないと意味がない。


予備校・塾(毅、遼)


毅と遼は、それぞれ大学と高校を目指して、6月に帰国してからすぐ受験の準備にはいった。二人とも3年をアメリカで過ごしたために「帰国子女」枠での受験となり、そのような受験生のためのコースを設けている某大手予備校Y及び某大手塾Sへそれぞれ通い始めた。毅は新宿まで、遼は横浜まで、通学である。クラス仲間もいろいろな国から戻ってきた「帰国子女」ばかりであり、「逆カルチャーショック」などの問題はなかった。毅は、受験のためにも新聞を読むようにと教えられたとのことで、日本語の新聞を読む習慣がついた。



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